大分県・日田市は北部九州のほぼ中央、大分県の西部に位置し、古来から山紫水明の地として知られてきました。内陸盆地の気候で育った日田杉は「九州三大美林」と言われるほど木目が美しく、強くしなやかなのが特徴で、空に向かって垂直に伸びた杉林の景色は、日田市民の原風景ともなっています。

日田げたは、その美しい日田杉のなかでも特に木目が詰まった根元の部分を材料とし、地元の工場にてひとつひとつ丁寧に加工、最後の仕上げまで職人が目検し、足触りの重要な部分となる焼き加工や塗り重ねはすべて手作業で行っています。

日田杉を材料として、日田の工場で製造され、日田の職人の手で作られたもの。
その工程すべてを日田だけで作ったものを「日田げた」と呼んでいます。


180年余りの歴史ある日田げたですが、そのしつらえの美しさだけではなく、どの季節でもさらりとした感覚を感じられるのが最大の魅力です。また日田げたは本来、日常履きを目的として作られていますので軽く、歩きやすいのも特徴です。歩きはじめから健康を気にする年齢まで、全世代が快適に歩けるよう、日田げたは確かな品質で、歩くことへのさらなる価値をもたらします。

また現代ではスローライフも注目されています。食生活や運動と同様にゆっくり歩くことも、私たちに心のゆとりを与え、生活の質を高めてくれます。週末、げたを履いて木の質感を足で感じながら自然を歩いてみる。そんな心地よい時間、スローウォーク文化を日常にぜひ取り入れてみてはいかがでしょうか。

そのどれもに、職人ひとりひとりの魂がこめられた日田げた。
その工程は、日田杉を製材するところから始まります。

節がなく、木目が綺麗な杉の根元。その部分を採寸して長方形に切り出し、木目の順目、逆目を職人が目で確認しながらひとつひとつ機械でげたの形に木を削り出していきます。削りだしの機械は昭和初期からずっと現役。工房独自の刃物を使い、サイズに合わせて職人の目で微調整をすることにより美しいフォルムの木地が完成します。

続いて天然乾燥。木地を屋内にて円柱状に重ねていくと風通しが良くなり、満遍なく木が乾いていきます。木地を高さ2m程に積み上げた状態を輪積みといい、日田げた工場ならでは風景となっています。げたは2~3ヶ月ほど乾燥させて水分を抜き、軽い仕上がりになるように仕立てます。

そこからげたの個性を少しずつ出していきます。「白焼き」は、表面を焼いて木目をはっきりと出す「神代焼仕上げ」を施し、無塗装で仕上げます。白焼きはニスで加工したフローリングよりも素材感が味わえると、近年では特に人気となっています。
ここで両足の木目が揃うよう、さらに職人の目で選別していきます。また艶出し加工のげたには重ね塗り。塗料で仕上げることで耐久性を増し丈夫なげたを作ります。そして最後は、鼻緒の専門職人が手づくりの鼻緒を結びつけて完成します。

日田は、げたの三大産地のひとつですが、そのなかで唯一、分業制をとり産地形成している地域です。工程により作業が分かれていて、どこか工程で歪みがあると、次の工程でより手間暇がかかってしまいます。そのためどの工程でも力を抜かないことが、品質の維持に繋がっています。

日田市は阿蘇・くじゅう山系や英彦山系の美しい山々に囲まれた内陸型盆地です。
夏は暑く、冬は寒い。また、雨量も多いことから四季の移ろいがはっきりしています。
この気候が全国のなかでもとりわけ良質な杉を育てるのに適しており、赤身が多く、害虫や湿気などの影響を受けにくい逞しい杉が育ちます。また湿潤な気候がゆえ、朝には底霧が現れ、杉林を囲んでいる風景はとても幻想的です。

市の面積の8割以上が森林、そのうちの7割は人工林である日田ですが、もともと杉の植栽の起源は、延徳3(1491)年、現在の日田市中津江村にある宮園津江神社の境内でのご神木の植栽と言われています。一般の植栽は、享保年間(1716~1735年)に宮崎・日向地方の挿し木法が始まりとされているので、それよりも約225年も前に、日田には杉の木が植えられていたことになります。

それから徳川幕府や日田郡代・塩谷大四郎が植林を奨励したおかげで、山野や空地などに植林が広がり杉林が増えていきました。
当時は江戸や大阪では駒げたや塗りげたが盛んに履かれる様になった時代で、町人文化の発展と共にげたの需要が増え、日田でもげたが作られる様になったのです。文久2年(1862年)には、日田の特産品としてげたの名前が上がり、元治元年(1864年)には、豆田町絵図にて下駄屋を営む家が2戸記されています。それから一気に日田げたは全国へと広がりをみせ、大正13年(1924年)には生産量が年間300万足を超え、その2年後には日田は静岡、広島と並ぶ日本の三大産地と称されるようになりました。

日田げたの生産が始まった頃、日田杉は山から谷川まで運ばれた後、流し子と呼ばれる男衆が、下流にある木屋親方と呼ばれる材木屋の集積場まで「木流し」という方法で届けていました。木流しは10人ほどで1,000本から1,500本くらいの杉を運びますが、そのほとんどを丸太でそのまま川へ流し、流し子はそのうち数本を山筏に組んで舟代わりにして川を下っていました。

流し子はぎっしり流れる丸太に飛び乗りつつ、途中で引っかかった木をカギ棒などで押したり引き寄せたりして川を下ります。そうして丸太を次から次へと移動していく様をイシタタキと呼びました。この飛び方は子どもの頃から木流しに慣れてないとできないと言われており、流し子は立派な専門職でありました。

また木流しは天候に左右されるため天気を読むのも大切な仕事のうちのひとつでした。
「夏南、秋北」といって雨の降る前には夏には南の山が、秋には北の山が曇る。天気予報のない時代には、山にかかる雲の形でこれからの天気を予想して、木を運んでいたのです。
そして流れてきた木を持って運ぶのは女性の仕事とされていました。女性は、百姓仕事の合間に木を運んでいたのです。この風景は夜明ダムの建設が始まっていた昭和27(1952年)まで日田ではずっと続いてきた光景です。

戦前・戦後にかけてさらに急成長を遂げ、昭和21年(1946年)には年間生産量が2000万足に達した日田げたでしたが、それ以降は生産過剰や昭和28年(1953年)の大水害により、多くの製材所や木履工場が廃業や一時閉鎖を余儀なくされる事態となりました。またこの頃より、西洋靴の需要の増加し日田だけでなく全国的にも生産量は減少の一途を辿るようになっていきます。

この様な危機を脱出するため、日田では生産工程を分業化。需要と供給のバランスをとり価格を安定させ、それぞれの工場に一定の収入が入る仕組みをつくることによって、全体でげた工場を守っていこうと取り組みました。そして昭和末期頃から徐々にげたも新たなファッションの一つとして見直される動きが出てくるようになり、げたを履いた若者や女性が浴衣や和服を着てまちをそぞろ歩く風景も見られるようになりました。
現在では昔ながらのげたをこよなく愛するファンの方々も多くいて、日田げたを支えてくれています。

天領だった日田の歴史は、また少し独特なものでした。

そもそも日田の名前の由来は諸説ありますが、豊西記『日と鷹神話』では、「ある日、大鷹が東の空から湖に向かって飛んできて、羽を湖水に浸したあと、その鷹が朝日へと向かい羽ばたいた。その時、湖水が抜けて干潟となり、三つの丘と一筋二筋の清流が現れる。民はその場所を朝日に輝く大鷹にちなんで日鷹(ひだか)と呼ぶようになり、それが訛って現在の日田となった」という、なんとも神秘的な話が記されてあります。

その物語のごとく、日田は古来より豊かな自然環境があり、日田の歴史もそれと共に繁栄していきます。日田盆地は、阿蘇・くじゅう山系や英彦山系の標高1000m級の山々に囲まれ、その山々から流れ出る大山川、玖珠川、花月川など多くの支流が合流し、本流の三隈川となって日田市内に流れています。また福岡・熊本・大分がほぼ60km圏内という好立地にあり、水陸交通の要衝として知られていたことから、江戸時代には九州の幕府領を統轄する代官所(代官が派遣されて統治を行う役所)が置かれ「天領」となりました。


代官所がおかれた日田は、そのお膝元として発展していきます。九州各地へと繋がる日田街道や、筑後川の舟運が開いたのもこの頃です。そして、京や大阪商人との取引によって富を得た地元の商人が台頭し、なかには藩の公金出納である貸付業「掛屋」として活躍するなど、日田は九州の経済の中心地として名を馳せていきました。

しかし幕藩制がなくなったことでまちの構造は変化していきます。日田は金融のまちから日田杉の積出港となり、そこから林業のまちとして認知されていきました。日田盆地の東側下流部にある「筏場」という地名は、三隈川で筏(いかだ)を組んで筑後川をおりた名残と見られています。

時代の変化とともに産業も移り変わった日田ですが、市内では今現在でも江戸時代のまち並みがちらほら見られます。商人町として栄えた豆田町は江戸時代以降に建てられた建築群が現存し、往時の街並みを楽しみながら散策出来るのが魅力です。最近ではカフェや雑貨屋など新しいお店も豆田町に増えてきました。

また三隈川では屋形船や、鵜飼い(5月20日~10月末)や、夏は鮎、鰻など、水郷ならではの遊びや食体験も楽しむことができます。

日田げたは、今や海をこえ外国でも注目を集めてきています。ロサンゼルスのTORTOISE GENERAL STOREのハーバート・ジョンソン氏は、平成29年9月に来日した際、日田げたの歴史や文化とともにその品質の高さを評価して下さりました。

生活様式の変化とともにげたを履く習慣は少なくなってきたものの、揺るぎない品質は少しずつ世界へと届き、国外のファンも段階的に増えていることは、私たちにとって何よりの喜びとなっています。

杉は日本固有種、そしてその中でも美しいとされる日田杉。
最近では海外製品をも日田げたと称して販売している店舗も増えてはいますが、やはり代々続いてきた職人技術で作られたものと比べれば、軽さや強度、足触りも一線を画しています。輸入品とは異なり、実際の使い心地を試した声が日田のげたには集約されています。

私たちはその品質を守り、さらなるマーケットの充実を図るため『大分日田げた組合』を立ち上げ運営しております。日田杉を加工しひとつひとつ丁寧に仕上げている風景。それは私たちが幼い時から見ていた景色でもあります。子どもの頃はまさか自分がげた技術を継ぐなどとは想像もしていなかった職人もいますが、それでもなお今があるのは、世代を超えての職人同士の繋がりがあるから。これも伝統工芸を守っている理由のひとつにほかなりません。

日田の景色に囲まれ、日田でものづくりをしている私たち。そんな私たちの製品を通じて、履き物文化の価値をさらに高められたら幸いです。

大分日田げた組合

うらつか工房
〠877­0083 大分県日田市吹上町 4-41
TEL : 0973-22-8839 FAX : 0973-22-2297
http://uratsuka-kobo.com/shohin/
月隈木履
〠877­0008 大分県日田市丸山 208-1
TEL : 0973-22-2320 FAX : 0973-23-9006l
高村木履工業
〠877­0071 大分県日田市玉川町 3丁目3-2
TEL : 0973-24-4659 FAX : 0973-22-4420l
坂本木履工業
〠877­0045 大分県日田市亀山町 1-6
TEL : 0973-22-2739 FAX : 0973-22-2739
株式会社 新和産業
〠877­0088 大分県日田市小迫町 16-1
TEL : 0973-24-1101 FAX : 0973-24-1102
日田市役所商工労政課
〠877-8601 大分県日田市田島2丁目6番1号
TEL : 0973-22-8239